昨日の記事に書いた緊急避難シェルターの追加です。正式には『パーキングシェルター』といい、ここは浜里パーキングシェルターという名称です。よくチャリダー・トホダーが雨宿りしています。
JR最北端の駅「稚内駅」。くたびれてきた駅舎がそうとうな旅情を誘っています。レールの最終点や記念撮影でおなじみの方も多いのではないでしょうか。80年代バイクブームの頃はこの駅前に夜は無数のバイクが並び、無数のシュラフが軒下に並んでいました。筆者も帰省したくせに、わざわざ駅宿した事もありました。
時代は変わりライダーハウスが増え、テント装備のバイカーが増え、なにより旅ライダーが減ったことで閑散とした駅前広場になってしまいました。
もっと以前、筆者が子どもの頃は「カニ族」が待合室や軒下に寝袋をならべ、どこからかギターと歌声が聞こえてくる、いつも賑やかな駅前でした。
キスリングという横に大きく張り出したリュックとジーンズ姿、国鉄周遊券と時刻表を持つ旅行者たちは、リュックの幅が広すぎて列車通路を横向きで歩かなければ通れないので「カニ」と呼ばれていました。今では国内旅行も減り、車やバイクなどが普及したため、鉄道を使う長距離旅行者は鉄道ファン以外にあまり見かけなくなってしまいました。
当時は離島ブームでもあったので、みなこの終着駅から裏側のフェリー乗り場へ行き、礼文島・利尻島へ渡って行きました。「日本一きちがいの名物ユースホステル」なんてお話もありますが、それはまた次の機会に書かせて頂きます。
しかし、久しぶりの故郷に驚愕の事態が。
駅前広場が一変し、近代的な建物ができあがっていました。バスターミナルやシネコンなどが入居する駅ビルのようです。稚内は長らく映画館空白時代が続いていたので、地元市民には待望のシネコンなのだそうです。空洞化してしまった中心部を、再開発で活性を図りたい計画のようです。どこの地方都市でも同じ悩みのようです。
しかし旅人の視線で見ればさびしい、複雑な気持ちもありますが、旅行者は基本無責任です。地元が便利になるのは喜ばしいとしなければなりません。でも旅愁たっぷりの旅館やお土産物屋さんが、だいぶ減ってしまいました。
太平洋戦争中、最北端の駅は稚内駅でなく「稚内桟橋駅」でした。北に数百メートル進むと有名なドーム型防波堤がありますが、列車はそこまで走り貨客船に積みこまれ、樺太(サハリン)の大地へ乗り入れていました。
現在、サハリンへは稚内からフェリーが定期就航し、愛車とともに海を渡るライダーも多いと聞きます。しかし、サハリン航路も廃止の噂があるようです。もっといっぱい旅に出て、応援しなければと決意新たにしました。
古い写真と切符をいつも手元に大事に置いています。
国鉄がJRになった年、青函連絡船が正式運行最後の年の夏に、愛車とともに津軽海峡を渡った記念品です。まだ私は何も知らない小僧で、青函連絡船が廃止になるなんて事すら知りませんでした。
船でも国鉄なので、乗船券ではなく「切符」でした。昭和62年8月2日、とあります。
昔は良かったなー、などとおっさんのような事を言うつもりはありませんが、もっと日本はオートバイが元気になって各メーカーから選びきれないほどの車種が発売されるようになれば、と心から願います。廃線が続く鉄道もさびしい限りで、私はどうやら「鉄」の素養があるかも知れません。
続く (がんばります・・・)